きもの選びは友達探し、あなたの笑顔に癒される by かずまさ

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第614号 2012年3月30日「昔の話-私のこと No.6」

番頭たちは、よく働いてくれた。従業員全員が燃えていた。
求人もした。初めは高等学校への求人で、名古屋の商業高校や三重県の高校。私の同級生が教師になっているのを知り、彼にもお願いし、何人かが入社した。即戦力になるということで、和裁の専門学校にもお願いした。その後、入れた従業員を定着させるために奉公人の求人もし、同業者(きもの屋)の跡継ぎとなる何人もの男女を預かった。
従業員教育もした。勉強会の一環としての産地見学では、十日町、京都、金沢、静岡、伊賀へも行った。
結局、従業員のほうは正直屋には残らなかった。正社員で入れた男の子たちは私のわがままに耐え切れず(?)退社していった。
今、考えると惜しい人材も何人かいた。今ごろになって自分の器の小ささに気づいている。

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第613号 2012年3月28日「昔の話-私のこと No.5」

私は小さい頃から扁桃腺が弱かった。
学生時代は運動クラブに所属していたおかげか熱も出なかったが、正直屋に帰り、不摂生な生活をするうちに体力も衰え、風邪を引くと扁桃腺が腫れるようになり、冬になると毎年のように耳鼻咽喉科に通った。
3年ほど経った頃、先生から『扁桃腺を取る手術をしようか』と言われ、お願いした。30歳近くなっての扁桃腺手術には一週間ほどの入院が必要だった。
痛い思いはしたが、その後はカラオケをしても扁桃腺の心配はなくなった。

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第612号 2012年3月24日「ホームページ No.7」

612正直屋縁のホームページを作って9年目に入りました。やり始めは番頭から『そんなことをして遊んどらんと、お客様廻りをきちんとしなさい』と注意された。時代は変わっても商いの基本に違いはなく、今でもお取引のあるお客様宅には伺うようにしている。
お客様が着物を着用する場面が以前とは違ってきているのをよく感じる。現代人は着用する会場で着物を着て、その場で脱いで帰る。だから、自宅からその会場までは洋服を着ている。いわば舞台衣装の感覚で着用しているのだ。普段から着用している人も少なくなった。だが、着物好きは多い。毎日着る方は勉強もされているのだろう。メーカー名もよく知っておられる。そんな方たちが好んで購読していると思われる本もたくさん出回っている。
これからの『きもの屋』は愛好者にターゲットを絞った『きもの屋』か、結婚式・七五三・成人式等の式服を専門にした『きもの屋』になるのだろう。そしてインターネット販売はますます大きくなるだろう。その為の布石として、今回ホームページの完全リニューアルを決めた。仕上がりは6月の予定です。楽しみです。

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第611号 2012年3月19日「東日本大震災 No.9」

時間の経過とともに震災の話から原発の話に変わってしまったが、震災から1年が過ぎても一向に状況は進展せず、近ごろは足の引っ張り合い(?)のニュースが多くなった。いつもの事ながら、日本は外国に比べると危機管理の対応が遅い。だが、生命がかかっている以上、遅いでは困る。『あの時こうやっていたら・・・』我々の商いでもそうなのだが、そんなことでは困るのだ。それこそ『正義の味方』がいればいいのだ。今回の件は『右』、次は『左』と指示してくれて、それが一番良い方向ならばいいのだ。沖縄の問題、消費税の問題、TPPの問題。我が国もたくさんの問題を抱えている。
今年の冬は長くて寒い冬だったが、もう春がすぐそこまでやって来ている。3月は卒業式シーズン。毎日のように袴の着付・ヘア・メイクの予約がある。ありがたい。いつ頃からこの袴スタイルが始まったのか?初めは矢絣(やがすり)からだったと思うが・・・。
悪い出来事はなるべく心の明るさで吹き飛ばして、良い運気をもたらしたいと思う。

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第610号 2012年3月16日「昔の話-私のこと No.4」

『3年も奉公に行っていたんだから、何か売れるヒントを勉強してきただろう』と番頭に言われ、個店での外での催事を提案した。それが『創業50周年祭』だった。記念売り出しということもあり、お祝いの品をお客様からもいただいた。よく売れた。特価品では、『ゆかた反物2,000円』というのがあり、一人で何反も購入されていった。その頃は、今と違いプレタ(仕立上がり)ゆかたではなく、すべてが反物で別誂(あつら)えだった。
その後、外での持ち出し催事個展は3回(3・7・11月)まで行うようになった。当時、社長(親父)が組合の役員をやっていた関係で、2・5・8・11月に行う組合での展示会にも参加していたから、年7回も外で展示会をやっていたことになる。毎回、ほかのきもの屋さんとの競争も手伝ってよく売れた。特に、紬類の企画はオリジナル商品を作ったりもして楽しかった。年間購入30万円以上で一人招待の1泊2日の旅行は、バス8台300人の参加者で、宴会のカラオケでは毎回列ができるほど盛況だった。

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第609号 2012年3月13日「昔の話-私のこと No.3」

何もわからないまま時は過ぎた。
仕入れは番頭について行き、値段のチェックをしてもらった。私が奉公した店は神戸にあり、高級呉服のお店だった。正直屋は中級より少し上のお客様が多く、選品も関西風どっぷりだった私は正直屋好みが理解できず、ずいぶん損をした。当店は、仕入れると日にちをチェックして、古くなればディスカウントするという店なので、仕入れ方の『目利き』は絶大だった。仕入れては損をし、また仕入れては損をする毎日だった。番頭のほうも大変だった。新しい店を出店し、新しい客作りが大変だった。全員が借金返済に夢中だった。
少しずつ名古屋風が理解できた28歳の年末に結婚した。女房は私以上に名古屋弁に泣いた。現在は普通に名古屋弁で話すが、当時は会話で苦労したようだ。友人も名古屋には誰一人とおらず、厳しい毎日だった。

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第608号 2012年3月9日「昔の話-私のこと No.2」

新規訪問をするようになって半年が過ぎた頃、本店店長(番頭)の出店計画と第一番頭の暖簾(のれん)分けが決まった。自分が本店店長になった。そして、その年の末には女房が入社した。
番頭の客をほとんど譲り受け、お客様廻りをした。『お客様をお守りしていれば番頭の70%の数字はできる。あと30%は新規で作れ』と言われた。『何も知らない自分に何ができるか・・・』と思ったが、意地だけで外回りをした。本店の番頭夫婦で全店の数字の6割以上販売していた。番頭のエピソードはいくらでもある。
ある日、お客様から『今度の日曜日にお茶会があるのだけれど、何を着ていったらいい?』という電話があった。番頭なら、すかさず『(時期)に購入してもらった〇色の訪問着と(時期)に購入してもらった袋帯に小物は〇〇を』と答えただろう。でも、私は何も答えられなかった。ついでにその商品の仕入先は?原価は?・・・すべてスラスラと答えられるスーパーマンの番頭だったのです。そんなことは私にはできない。

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第607号 2012年3月6日「昔の話-私のこと No.1」

丁稚(でっち)奉公から無理矢理戻されて、いきなり招待旅行でお客様に紹介された。後はやることがない。番頭がお客様廻りで連れまわってくれるが自分の客ではない。仕入れに連れて行かれ、『商品を購入しろ。三年間も奉公に行っていたのだから、自分の好きなようにやればよい。』と言われた。何も思いつかず、何をしたらいいのかわからない。ふと展示会のチラシが余っているのに気づき、成人名簿(これから成人式を迎える人たちを掲載した名簿)を入手して、それを基に訪問することにした。その当時、店周辺は基本的に番頭の奥さんが廻っていたので、それ以外の地域を訪問した。奉公先は商店街の中にあったので、そんなことをしなくてもお客様はどんどん来店されていた。商いの方法が全く違う店で奉公していたことに気づいた。仕方がない。一からの出発が始まった。

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第606号 2012年3月2日「ひな祭り」

3月3日は桃の節句、ひな祭り。
私の兄弟は男2人の女3人で、女性軍も私同様60歳前後になってしまった。昔、今ごろになると女性どもはお袋と一緒におひな様を飾って祝った。菱餅に白酒、あとはあられ等のお菓子。女児の成長と幸福を願って行われた行事だそうだ。そういえば、正月以降、テレビでも『明かりをつけましょ・・・』の唄でよく宣伝していた。我が子も、もう名古屋にはいないが・・・。
子どもについてのことわざをいくつか紹介しましょう。
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『這えば立て』
 子どもがつつがなく成長するのを願う親の気持ち
『寝る子は育つ』
 よく眠るのは健康で、そういう子は丈夫に育つということ
『一姫 二太郎』
 子どもを持つなら最初は女の子、二番目に男の子のほうが育てやすい
『内孫より外孫』
 嫁が産んで一緒に暮らしている内孫よりも、嫁いだ娘が産んだ外孫のほうが可愛く思うということ
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どちらにしろ、子どもはどの子も可愛い。純真無垢という言葉があるが、近ごろは勉強勉強で遊ぶ暇もなく、大人より子どものほうが忙しい。
もう春がすぐそこまでやって来ている。桜も咲き、暖かい陽気になる。一家揃って散歩・ハイキング・花見に出掛けるのもいいですね。

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第605号 2012年2月28日「携帯サイト No.2」

正直屋携帯サイトのトップ・正直屋NEWS・お知らせのページを週に2~3回、名古屋弁で書いています。1月にやり始めた頃と比べ、苦痛ではなくなり、今のところ楽しく書いています。
現在では使われなくなった名古屋弁も多いのですが、『おばあちゃん子』だった私は、成長過程で聞き慣れていたということもあり、そんな言葉もスラスラ出てきます。書きながら苦笑したり、祖母のことを思い出したりしています。文章で書くのと、あの独特のイントネーションで言葉を発するのとでは、それぞれに面白みがあって楽しさも倍増します。方言というのは、その土地の人間を懐かしさありの思い出探しのような気持ちにさせてくれます。
現在使用している言葉は、どんどん標準語に近いものになってきていて、それはテレビやラジオ等から流れてくる会話の影響を受け、自然に変化してきているのでしょう。どこの生まれの人間なのかがわかるのが方言であり、それにはどこか温かみがある。テレビを見ていると、時々、『これって日本語?』と思うような会話をお年寄りがされていて、バラエティ番組ではそれで大笑いしているが、私も60才を過ぎて名古屋弁をもっと利用したいと思うようになった。年のせいだろうか?

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