きもの選びは友達探し、あなたの笑顔に癒される by かずまさ

目次はこちら(今までの記事一覧)

第623号 2012年5月1日「振袖正直屋」

やっとホームページ『振袖正直屋』をリニューアルできました。
何とかゴールデンウィークまでにはと考え、担当者に無理をお願いしました。モデル写真の使用許可が間に合わなくて連休明けのお披露目分もありますが、『見やすい!選びやすい!』をポイントに直しました。
洋服を選ぶ時の感覚と同じように、もう少し改良が必要です。20年ほど前に教えていただいた『インターネットの勉強会』がやっと仕上がったということです。お客様の立場で考えるなら、まだまだ直さなくてはいけない点が多々あるかもしれません。直せるところから改良していく予定です。この後は、携帯にスマートフォンともう一つのドメイン『正直屋縁』も直していきたいと考えています。
ご覧ください。そして、『おっ!いいがね!』と言って!

ページの頭に戻る

第622号 2012年4月27日「弟」

私には弟がいて、平成21年12月3日までは、兄弟できもの業を営んでいた。
彼は千葉のK店という振袖専門店で修行をしてから正直屋に帰り、私と同じように跡を継いだ。皆に可愛がられて育ち、商いもとても上手だった。
K店にいた頃は、テレアポで売上を作っていたのに、正直屋では、当時、その方法では商いをしていなかった。親父が新しいやり方を認めていなかったのだ。
それを感じ取っていた私と同じように、名簿を携帯しての飛び込み営業が始まった。商いは上手なのに飛び込みは下手だった。まずは、ポスティングと訪問により自分を売り込めばいいのだが、会話が上手すぎたのか?お客様への受け答えはとてもいいのだ。私もそうだったが、『商売屋の息子は口が上手だからね』とよく言われた。仕方がない。息子としての試練はいくつもある。しかし、反対にメリットもたくさんある。
私も弟も、正直屋という看板は、一生背負って生きていかねばならない。

ページの頭に戻る

第621号 2012年4月25日「プロ」

テレビやラジオ等に出てくるプロの人たちはとても厳しい日々を送っている。スポーツ選手、特にアメリカの野球選手は莫大な報酬を得ているから憧れる。我々の年代になってしまえば、まったく無理な話だから諦めもつくが、『自分があんな人間だったら・・・』と夢みたいなことは思う。だが、誰もが若いままではおられない。スポーツ選手が引退し、その後も解説者や指導者として一流になれる人はごくわずかだ。続けるという難しさが何にでもある。
商いも同じだ。私は、先代から店を受け継ぎ、平成9年に社長になった。祖父や父も大変な苦労をしてきたと思う。今年で創業88年になる。やり始めは簡単な仕事だと思った。しかし、年を重ねるごとに商いの難しさが感じられるようになった。現在の私は目標を創業100年とし、何とかそれまで愛される店『正直屋』として残り続けたいと願っている。
私は、プロとしての仕事の重大さを日々考えているか?努力しているか?反省の中での成長です。

ページの頭に戻る

第620号 2012年4月20日「昔の話-私のこと No.12」

620昭和の時代は、私が広告宣伝の担当だったが、二人の新人教育のために
その仕事は彼らに譲り、その頃新しくできた振袖グループに加入した。
当時は番頭たちや私を含め4組いた。
大した企画を組まなくても、与えられた地区をきちんと回っていれば振袖は
販売できた。青年たちがよほど販売枚数の実績を作らない限り、
今まで通りのやり方は変わらない。
振袖グループのDMを利用しなくてもまだ売れた。
しばらくグループで勉強していたが、ついにはそのグループも退会した。
そんなことより従業員同士の交流を深めることのほうが重要だと思った。
親睦旅行に行ったり、ボーリング大会、潮干狩り、さくらんぼ狩り等へ行って
楽しんだ。従業員数は20名近くになっていた。
古くなった店の建て直しを、本店、猪子石店と進めた。

ページの頭に戻る

第619号 2012年4月17日「昔の話-私のこと No.11」

平成になった頃、体重が70キロを超えた。ある時に、急に体重が減った。55キロまで落ちた。糖尿病にかかっていた。病気になっても生活は変わらなかった。
タバコは40歳の時にやめ、息子が喘息ぎみになったのと、自分の体力をつけるためと、病気治療のためにもと、朝のラジオ体操とランニングに出掛けるようになった。鶴舞走友会というグループに入会し、犬山や三好マラソンにも出場した。
平成2年に、弟が3年間の千葉での修行から戻ってきた。修行先は振袖販売で急成長していた店だった。その店のノウハウを取り入れて、これからの時代に対応するはずだった。猪子石店の息子も、同様に大阪の修行先から1年前に戻ってきていた。正直屋も、この二人の新人の入社で他店がシステムを考案し成長している事実は知ったが、私の時と同じで、その方法を取り入れて改革するにはハードルがたくさんあった。正直屋は、番頭たちのお陰で成功した店だからだ。新しくテレアポを取り入れても、『そんなことをするより案内状配りをして来い!』と言われる。私がもっとバックアップして彼らを育てなくてはいけなかった。

ページの頭に戻る

第618号 2012年4月13日「昔の話-私のこと No.10」

私には子どもが2人いる。以前、彼らのことをブログに書いたら『二度と書かないで』と言われ、それ以後は控えるようにしている。
子どもがまだ小さかった頃、子ども達の日々話したことや出来事をノートに書き記しておき、結婚する時にそれを見せてあげるといいという話を事務員から聞き、『おもしろい!』と思って2人のことを別々に書き綴った。
息子は結婚したが、渡してはいない。私が亡くなってからの遺品整理の時にわかる(?)、それもおもしろいと思ったからだ。遺産には漫画の本・CD・テレホンカード・絵馬のハガキ等、子どもにはゴミとしか映らない収集物もあり大変だろうなぁ。
昭和から平成の初めの頃は、子育ての時期でもあった。ゲームセンターでのこと。ワクワクするゲームがたくさんあり、1,000円2,000円とすぐに使ってしまう。そこで、『今日は1,000円札であげよう。大金だからよく考えて大切に使いなさい。それ以上はあげないからね。』普段100円玉しかもらっていない彼らは、大金をもらったという気持ちにはなるが、結局はいつものようにすぐに使ってしまう。1,000円札1枚で終了させる策ではあったが、お金の使い方の勉強にはなったかな?ただのケチと感じたか?わからない。

ページの頭に戻る

第617号 2012年4月10日「昔の話-私のこと No.9」

昭和から平成になった。商いが婚礼の支度・こしらえの販売から、企画販売での売上に変化してきた。何かを企画し、それを購入した人を旅行に連れて行くとか、食事会に招待するとかで売上を作った。『着物を作って着る楽しみ』から『着物を購入して旅行へ行く楽しみ』に変わった。旅行や観劇の招待会も、初めは着物着用の機会を一回増やすための策だったが、次第に着物を着用しないで旅行に来られる人のほうが多くなり、最後の頃にはバス一台につき2~3人にまで減ってしまった。でも、楽しさは残った。袋帯・づづれ帯、伊賀の組ひも、十日町紬、両面コートの企画販売を行い、北海道から沖縄まで、日帰り・一泊・二泊三日の旅行と年に3回も遊びの会を作り楽しんだ。その頃のことが話題にのぼると、今でも固定客から決まって感謝される。お客様もその旅行が楽しみだったのだ。たくさんの笑顔の写真が残っている。

ページの頭に戻る

第616号 2012年4月6日「昔の話-私のこと No.8」

616昭和51年に商工会議所の紹介で名古屋専門店協会に入会した。一業種一店舗という集まりの会なので、同業者の集まりとは違い、足の引っ張り合いがなくてとても良かった。親父が組合の役員をしていた呉服小売業の集まりでは、業者間での嫌がらせがあった。
この会へは、初めから私が出席しており、色々なことが学べた。以前にも書いたが、私が普段着物を着用しているのも、この会の先輩からの助言によるものであり、他では学べないことがたくさんあった。
子どもも2人授かり、毎日忙しかった。昭和の時代はそれなりに着物も売れ、若い従業員の出入りは毎年のようにあったが楽しかった。夜は知人たちと酒を交わし、休日は子どもを連れて動物園やお風呂屋さんへ、夏休みや正月休みには女房の実家へ里帰りした。ディズニーランドへもよく行った。店舗も昭和59年に和合店を出店し、4店舗にまで成長した。

ページの頭に戻る

第615号 2012年4月3日「昔の話-私のこと No.7」

今までに何人かの奉公人を入れた。昭和55年くらいから17人ほど(うち女性3人)が入社した。契約期間は3年で全寮制だった。奉公期間中、社有車のライトバンを事故で2台廃車にした男性がいた。あってはならない奉公人同士の結婚もあった。きもの業界で跡を継ぐ人は少なくなり、現在、正直屋に奉公人はいない。17人のうち8人は、廃業や別の仕事に従事されており、寂しい限りだ。反対に、現在振袖を年間500枚も販売するお店に成長させた人や、東京に古着屋を出店し、前向きにきもの業に取り組んでおられる人もある。たいへん嬉しく思う。『きもの屋』はいい商売だ。

ページの頭に戻る

旧ブログ「社長の徒然草」もご覧ください

2011年9月まで投稿していた旧ブログは「社長の徒然草」でご覧いただけます。

ページの頭に戻る