きもの選びは友達探し、あなたの笑顔に癒される by かずまさ

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第798号 2014年3月18日「着物昔話 No.2」

40年以上前の話。当時は、普段から着物を着用されている人が多く、ウール、シルック着尺、ゆかた等の手軽に購入できる品もよく売れた。
当然、仕立屋さんとの取引も多くなる。その仕立物の集配の仕事を、私がアルバイトでやっていた。19歳から3年間、ほとんど毎日手伝った。
仕立屋さんのほかにも、いろいろな業者を廻った。紋屋へ行けば、目の前で紋を書いているところや、シミ抜きをしているところが見える。こんな風にして仕上げるんだ、と見る事で学んだ。これは、後で知ったことだが、洗い張り専門業者は、使う洗剤にもよると思うのだが、力の入れ具合や洗い方で、上手下手がわかる。しかし、当時は、『こんな仕事』と思っていた。我店も、洗い張りや湯のしだけは、その業者に出していた。その理由が、ずいぶん経ってからわかった。
きもの屋に生まれ、反物の巻き方や正札のつけ方は覚えさせられたが、仕上がった着物の畳み方までは覚えなかった。その時に覚えておけば、後日恥をかくこともなかった。だが、当時は、アルバイト代とその仕事をすれば、仕事時間以外の車の使用を許可してくれるという甘い約束だけで仕事をしていて、他のことを覚えようとする気持ちなどは、まったくなかった。

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第797号 2014年3月14日「着物昔話」

797『着物を裁つ』と言っても、わからない人のほうが多いだろう。
昔は、現在のように着物=(イコール)式服ではなかった。
ウールや銘仙(めいせん)、小紋、紬という絵羽仕立てになっていない総柄、つまり2尺ごとに同じ柄が連続している反物を仕立てては、普段着として着用していた。約76cmごとに同じ柄が現れるのだが、その柄が横並びにならないよう、特に前身頃には一番注意を払う。衽(おくみ)と前巾柄を、適当な間隔に配置する仕事なのだ。
一反の総尺の中には、キズが隠れていたり、身長の高い方、総尺自体が短くなってしまった洗い張りの品などもあり、難しいものだと担当者は一日中考え込んでいたものだ。
当時の仕立物係は祖母だった。その難しい柄合わせも祖母がしていたので、仕立屋さんは、言われるままに仕立てればいいのだから、柄の出具合で苦情を受けることもない。これは楽だというこで、好んで仕立物を受けてくれた。
大相撲で、贔屓(ひいき)衆に配られる浴衣には、力士の名前の染が入っており、柄合わせを間違えて、その名前が逆さまになったりすれば縁起が悪い。そんなことのないよう苦労して柄合わせをして裁っていた。
現在は、すべて仕立屋さん任せになってしまった。

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第796号 2014年3月11日「ママ振 No.3」

その年の成人式が終わると同時に、翌年の振袖の下見客や成約者が急増する。4月から消費税の値上がりが決まっているので、最後の駆け込み需要もあるかもしれません。
この1~2年、お母様の振袖を着用する『ママ振』の方も多くなりました。お母様世代の振袖は、生地も良く、今着用しても何ら見劣りする品ではありません。強いて言うなら、当時は中振袖なので、身長にもよりますが、現在の振袖と比べると、袖丈が2~5寸程度(8~20cmくらい)短い。柄付も、現在は全体に配置されるようになったことと、流行色が多少違っているものもある、ということくらいでしょう。
お母様の振袖に、憧れや愛着を抱いたお嬢様なら、『ママ振』をぜひ利用していただきたいです。身長差が大きければ、きもの屋さんにサイズ直しの相談をすればいいです。お嬢様のセンスで着用すると楽しいですよ。
小物等を現代風にアレンジすれば、同じ振袖でも、ずいぶん違った印象になります。送られてくるDMや雑誌を参考にして、重ね衿・半衿・帯締め・帯揚げ・草履・バッグ・ストールなど、自分なりにコーディネートしてみてください。それと、ヘアー・メイクや髪飾りを工夫することも重要です。
正直屋のホームページには、そんな情報が満載です。参考にして、チャレンジしてみて!

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第795号 2014年3月7日「卒業式 No.3」

3月は卒業式の月。2月28日から始まり、毎日のように、正直屋各店では、二尺袖着物と袴の着付をしている。午前5時から予約の入っている日もあり、そんな日は、スタッフは、30分前の午前4時半には出勤して、待機している。
今まで、補整用のタオルを忘れたり、草履や肌着類、小物を忘れたりするお客様があったが、店でも販売している物なので、それが理由でお支度の終了時間が遅くなるようなことはない。一度、半衿が付いていないということもあったが、ヘア・メイクをしている間にスタッフが付け、間に合わせたこともあった。
しかし、今回は、そんな簡単な話ではなかった。美容師との打ち合わせの際、勘違いから、お客様の来店時間を一時間、間違えてしまったのだ。それがわかった時は、少し慌てたようだが、いつものように、当店のスタッフは、予約時間の30分前から待機していた。美容師が到着するまでの間、先に着付をすることにしたのだ。そうしたことにより、お客様は、何とかギリギリ集合時間に間に合ったようだ。係の機転と、着付の出来るスタッフがいたことが幸いした。
予期せぬことが、起こってはいけない。パーフェクトな仕事をして、お客様に喜んでいただけるよう、正直屋は、店内でヘア・メイク・着付・写真撮りを行っている。これからも、出来る限りこの姿勢で続けていきたい。

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第794号 2014年3月4日「サービス」

店で留守番をしていたら、『証明写真を撮ってほしい。』というお客様が来店された。外国人留学生なのか、日本語も片言。私のほうは、しばらく『・・・?』  『そうか!』と合点がいくまでに、少し時間がかかった。きっと、インターネットで調べて来店されたのだ。
『写真撮影』で検索すると、現在、振袖を取り扱っているきもの屋のほとんどが引っかかるだろう。それほど、『振袖の記念撮影』を宣伝しているわけだ。日本人なら当たり前に理解することが、外国人にはわからなかったのだろう。スーツ姿の男性だった。
婚礼の着付では、当然、ヘア・メイクも行うということから、近頃は、振袖の着付時にも、ヘア・メイクを受けるようになった。サービスの延長として考えていくと、いろいろな商いが広がる。毛皮やストール、草履バッグ等は、それぞれ専門店があり、商売として成り立っていたが、現在は、きもの屋が当たり前のように販売するようになった。
先日、鼻緒のすげ替えを頼まれた。草履の販売はしているものの、すげ替えまでは出来ない。それをメーカーに持参したところ、『古すぎて、草履の台も傷んでいる。鼻緒をすげている最中に、土台が壊れてしまうかもしれない。』と言われた。受けられない注文として扱った方がいいという回答だった。昔なら、このくらいのことは、草履屋の職人さんが、店先で会話をしながら替えてくれるような仕事だったろう。
サービスの延長線とはいえ、難しい仕事がたくさんある。お客様のためにも、目を養って、お客様の二度手間にならないようにしなくてはいけないと反省する。

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第793号 2014年2月28日「番頭 No.2」

793番頭が、ある時、『社長(私の親父)が、我々を信用して、仕入れをすべて任せてくれたから、我々も必死に働いたのだ。』と話してくれた。
以前にも書いたが、私はお祖母ちゃん子で、祖母が親父のことを悪く言うのをいろいろ聞かされていて、それを信じていた。職業軍人だったので、お客様に頭を下げることが出来なかったこと、養子となって跡を継いだものの、しばらくは、祖父が苦労したこと、等々。高校、大学と成長するにつれ、親父と接することもなくなっていった。
親父は、自分の店づくりのために、親戚兄弟から人を紹介してもらい、入社させ、育てていた。自分が出来ないことを彼らに教育して、やらせた。
ある時、祖父が育てた従業員たちが横領したことがわかり、すべて解雇した。それからは、若い番頭たちの時代が始まった。
当時は、従業員教育などをしている時間はなく、個々が独自に学んだ。お客様から教わったり、問屋さんから学んだ。
親父は、商いが出来ない代わりに、組合活動や同業者との付き合いから情報を集めた。M問屋のH氏とは、商いを抜きにしての親交も深く、公私にわたりお世話になった。私も、指導を受けた。昭和40年代、50年代のことだ。
私が、親父の本当の姿を知ったり、気づかされたのは、その後、ずいぶん経ってからのことだ。

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第792号 2014年2月25日「番頭」

10年前まで、店には、親父が育てた番頭夫婦が3組いて、商いも固定客が中心だった。
お客様には、『友の会』に入会していただき、日々、そのお客様たち廻りをしながらの外販と、展示会での販売が主だった。各店2台以上の車を保有し、近所のお客様宅には、自転車やバイクで伺った。すべての店の立地が悪く、その対策もあっての商いの方法だった。しかし、その商法で店を4店舗まで増やしたのだから、親父や番頭たちが、いかに働いたかということだ。
悪条件を克服するために、『友の会』を立ち上げて、外販をした。現在とは違い、ホームページもなく、テレアポもせず、総合呉服のDMしか発行していなかった。婚礼の準備のために着物を買い求めたり、普段から着物を着用している人もたくさんいた時代だ。
数は減ったものの、今でもそのような方たちはいると思うのだが、そういう方を満足させるには、相当の商品知識や『おもてなし』法が必要となってくる。番頭たちは、根っからの叩(たた)き上げで、いろいろなことを経験しながら習得していった。
どんな仕事でも同じだと思うのだが、その仕事で一流になるためには、その仕事に没頭する意気込みがなければ、なれるものではない。親父は、生前、『うちへ来る人に、一流なんかおらん。他人より長時間働いて、たとえ給料が安くても頑張れる人じゃないとやっていけん。』と言っていた。だが、果たしてそうか?その中に一人、二人、一流人が紛れ込んでいて、その人自身、もがき苦しみながら、他の人たちを良い方向へ導いてくれたからこそ、今があるのではないだろうか。
月に一度の合議制による店長会議、お客様を対象とした招待旅行、東海呉服組合を利用した展示会、自店で行った創業50周年祭など、今思い返してみると、良いものはいくつもあった。

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第791号 2014年2月21日「親父の教え No.8」

親父は、酒が好きだった。どちらかというと、量は普通より少し多いくらいだろう。初めは、弱い方の部類。しかし、なぜか酒が強い人だと広まり、飲む機会も多かった。
お中元、お歳暮の頃になると、何十本と届いた。ほとんど買わなくてもよかったくらい。面倒見が良かったからだ。
寝室にも置いてあった。夜中に、また一杯飲むのだ。冷酒でコップ酒だ。こぼすから、畳が酒臭かった。
飲めないなら、盃(さかずき)は、少し斜めにしてお酌(しゃく)してもらうとよい、とか、コップ酒にすると、大概、相手は恐れてお酌に来ない、とかの話を、親父の飲み仲間から聞いたことがある。
飲めないなりに、いろいろ工夫していた。つまみは、あまり食べていなかった。これは、大酒飲みのパターンだ。着物がよく売れた時代だったから、宴会が多く、そんな光景の写真もよく見た。
そんな親父だが、私には酒は飲むなと指導した。しかし、私もそれなりの年齢になると、飲む機会が増え、26歳から始めた酒が、初めは弱かったのが、少しずつ飲めるようになった。
酒では、いろいろ勉強した。しかし、酒があったから、腹を割って話ができる仲間もできた。そんな仲間たちと飲む機会も少なくなった。ちょっと懐かしく思う。

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第790号 2014年2月18日「洗い張り No.4」

留袖の洗い張りを引き受けた。
紋のついた着物の洗い張りは、『紋洗い』 と言って、洗った後、もう一度きれいに紋を書き直さなくてはいけない。預かった留袖をよくチェックしてみると、黒い生地の色も、ところどころヤケが入って変色している。悉皆(しっかい)業者に相談してみると、結構、直し代金がかかるという。『解(ほど)き』の作業は、すでに店で終わってしまっている。儲かる仕事ではない。いい勉強になった。
昔、同じように預かって、洗い張りをした着物の仕立てが悪いと、苦情を受けたことがある。いろいろ調べてみたら、寸法が違っていた。従業員の勉強不足に呆れ、お客様に謝罪した。すると、お客様は、『寸法はいい。仕立てが悪いのだ。』とおっしゃった。着用すると、衽(おくみ)の先が少しはねるのだ。しかし、これは着方にもよる。台の上に置き、寸法チェックをすると、お客様のサイズには合っていないが、きれいに縫ってある。身巾は、広いなりにきちんと作られている。仕立ての状態などを説明したうえで、もう一度、初めからやり直しをさせていただきたいと申し出た。だが、お客様は、寸法違いの話が理解できない。私の対応も悪かったのか、腹を立てて帰られた。
前の店長夫婦も、年数だけは長かった。最終的には、何でも答えられる人材に育っていなくてはいけなかった。だが、日々の勉強を怠っていた。基本がわかっていなかった。クレーム処理は難しい。

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第789号 2014年2月14日「オリンピック」

789ソチオリンピックが始まり、半分くらいが終わった。
テレビ観戦していると、期待の大きい人は、毎日のようにテレビに登場してくる。しかし、日本では知名度が低い競技もあり、そんな競技の選手は、取り上げられることも少ない。親戚や知人でもいれば応援するだろうが、テレビにも出ないまま終わってしまう。
戦いに、泣き笑いはつきもの。日本代表だから、世界でも一流かといえば、そんな選手ばかりではない。さらっとした前宣伝だった人が、メダルをもらえば嬉しいだろう。反対に、期待の大きな選手の成績が悪いと、本人も悔しい思いが残る。
オリンピックは、世界一を競う大会なのだから、負けるものが出ることは仕方のないことだ。日本代表になること自体が厳しい争いだったはずだが、世界のレベルに比べて、日本のレベルが低ければ、自然と『参加することに意義がある』側にまわるわけで、そういう人たちもいなければ、一番の人も栄えない。いっぱい悔しい思いをし、次回、良い成績が残せるよう努力すればいい。
トップ選手には、決まってトップコーチがついている。計算し尽くされた練習と、毎日の生活、身体のコントロールに精神面でのコントロール。すべてが揃った人間が、一流になれるのだ。
若いということは、いくらでもチャンスがあるということだが、そのチャンスに気づかないうちに一生を終えていくことの方が多いかな?
人生はドラマだ。

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