きもの選びは友達探し、あなたの笑顔に癒される by かずまさ

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第764号 2013年10月29日「親父の教え No.4」

普段、親父との会話はまったくなかった。だから、何も教えてもらっていないと勘違いしていた。
店長会議では、お互いの意見をぶつけ合うことで、色々な話は聞けた。正直屋をいかに成長させるかの戦略会議なわけだから、きもの業界の話が多く、それはそれで勉強になった。ただ、現在の私と同じで、自分は好き放題にやっているのに、私には営業時間内はきっちり働け、休日も働け、友人の結婚式は出なくていい、等々、相談してもほとんどダメと言われることが多かった。
私も、年を重ねるにつれ、自分の判断で動くようになった。『数字さえ上げれば、責任は果たせる』そう思った。営業の仕事には、付き合いもある。新規のお客様を紹介してくださる方の運転手をしたこともあれば、食事にも行った。どうやったら成績が上げられるか、自分で考えるしかない。親父の言うとおりにやっていても、自分のプラスにならないと思った。
平成8年の友の会の横領事件でも、親父のイエスマンだったら、事件は発覚していなかったかもしれない。犯人は、7年以上にわたって同業者を脅し賺(すか)し、上手に手懐けていた。私が、親父の代理で会合に出席するようになって、事件は動いた。犯人逮捕のラストチャンスの時期だった。また、正直屋が友の会を単独で運営するという許可を財務省から取り付けるタイムアップぎりぎりだった。
あの時、番頭からは、商いの基本、まずは人をよく観察することから、ということを学んだ。親父は、何年にもわたって、同業者からも、何らかの間接的な圧力を受けていたのだろうと思う。正直屋を導く勘どころは間違ってはいなかった。

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第763号 2013年10月25日「親父の教え No.3」

店の招待旅行の時の写真がたくさんあるので、私は小学校に入るまでは、色々なところへ連れて行ってもらったようだ。しかし、家族旅行に連れて行ってもらったというのは、記憶では一度しかない。
そんな思いから、自分の子どもたちには、そんな寂しい思いはさせたくないと、定休日の木曜日には、長島温泉とかお風呂屋さんによく出掛けた。
学校から帰宅する午後4時頃に家を出て、夕食がてら、お風呂に入り、子どもたちはゲームを楽しんだ。
盆休みや正月休みには、ディズニーランドへもよく行った。神戸の女房の実家にも必ず行っていたから、大移動で大変だった。これら思い出作りの旅行は、私たち夫婦にとっては一大イベントだった。
私が子どもの頃といえば、日本は高度成長の時代。皆が忙しく、娯楽といえば映画くらいだった。2~3ヶ月に一度、見に連れて行ってくれるその時間は、家族だけの楽しみだった。私と妹3人と親父とお袋。帰りには決まって、大須のうどん屋さんで食事をした。
家に帰れば祖父母と住み込みの従業員たちがいる。家族でくつろぐ空間も時間もなかった。

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第762号 2013年10月22日「親父の教え No.2」

息子が泣いている夢を見た。どうやら、夜、友達と遊びに行く約束をしたらしい。精一杯反抗的に、『僕はもう中学1年生なのに・・・』 私は、『ダメなものはダメだ。それでも行きたければ行きなさい。家には入れない!』理由などは聞かない。相談もしない。こうやって、私は子育てをしてきた。
大学生になって、同じように反抗した時は、『自分で稼げるようになってから言え!』と叱った。その時に判断した通りに指導した。パソコンがほしいと言った時は、『まだ早い!そんな金はない!』と言い、大学に入って、通学のためのバイクが必要になった時には、『アパートと学校の行き帰りだけなら、このバイクで十分!』と決めつけた。それが、私のやり方だった。
私の親父は、私を育て、家を継がせた。私は、息子にそこまでは強制しなかったが、成長するにつれ、私と同じように自我の強い人間に育った。今では、『お父さんは間違っている!』と、私を責めることのできる人間になった。正しかったかどうか?もう過ぎ去った時間だ。現在でも、私は迷うことばかり。
子どもたちにしてきたことで、間違っていたこともたくさんあっただろう。

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第761号 2013年10月18日「親父の教え」

761私と親父との仲はとても悪く、店長会議でも、よく口論になった。
親父にしてみれば、私を指導しているつもりだったのだろうが、私は叱られているとしか取れず、自然に争いになった。
たわいもないことでよく揉めた。『使用しない所の電気は消しとけ!』とくれば、『蛍光灯は、点けたり消したりが一番電気を食うんだわ!』と、学校で学んだ変なことだけは覚えていて反論するのです。
63歳になって気がついても遅いのだが、親父は、そんなことを諭しているわけではないのだが、親子ゲンカとなると、一方通行で説明がない分、私も逆ギレばかりして反抗していた。
今から考えると、その頃の従業員は、細かいところも慎ましく節約していた。届いた荷物に結ばれていた紐は、何度も繋いで利用したし、茶色の包装紙もきれいに剥がして再利用した。
それは祖父の代からの教えであり、親父はそれに従い、新しく入ってきた従業員や私に教えていたのだ。
『学ぶ』は『まねる』から始まる。子は親の背中を見て育つものだ。
果たして、私の子どもたちはどうなのだろう?

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第760号 2013年10月15日「神様の言う通り No.9」

『あ~あ、難しい!難しい!』と、ふと漏らした。
『あんたは、ひねくれとるで、スムーズに行く話でも、つっかかって余計に揉めさせてしまう。アホや!』と言われた。
『う~ん』とは言うが、本当のことだから反論ができない。
なぜ、一言言いたくなるんだろう?言ってはいけないと思いながら、ついしゃべってしまう。『あ~あ、また言っとる!』と心の中で思う。
『終(しま)いに、顔もそんな顔に変わっていくわ!』
『えぇー!?』
『今んとこは、まだいいで、今のうちに心を入れ替えんと、目がつり上がったり、角が生えてくるかもわからんにぃー!』と脅す。
『あんたはいつも、年を取ったら笑顔の優しい老人になりたいと言っとるがね。言っとることとやっとることが正反対だでいかんわ!まぁ、この年までこれで生きとるんだで、治らんとは思うけど・・・。いい加減にせんと、誰も話してくれんくなるわー。』
なんで、今日はこうもボロクソに言われないかんのだ!あ~あ、難しい 難しい

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第759号 2013年10月11日「神様の言う通り No.8」

『そろそろ身辺整理をしなくてはいけない。』と友人が言った。『お前、まだ50歳代だろ?』と言うと、『子どもたちも成人したし、いろんなものを残しておくと、子どもたちに迷惑が掛かる。』というのだ。
そんな事を言ったら、俺はどうなんだ。子どもから見れば、ガラクタばかり。だが、整理しだすと、あれもこれも思い出の品ばかり。少しは捨てるが、また元のところに戻してしまう。親父やお袋のものを整理した時、残したものは結局写真くらいだったかな?そんなことは残った人たちが決めればいいか・・・などと考えていると、その方が、『あんたの人生で、一番苦しかったのはいつだった?』と話題を変えてきた。その時は、自分の苦しかった頃の話は出来なかった。
月日が経ち、また突然その話が出て、『自分の苦しかった時は、子育てしている頃だった。』と言うのだ。私にも子どもはいるが、いつの間にか成人してしまった。満足のいく育て方をしてきたか?と尋ねられても、『やってきたつもりだが・・・』などと、とぼけた答えしかできない。『誰だって子育ては大変だったろうに、今頃になって、そんな頃が一番苦しかったと思う人はいないよ!』と答えた。
その人にとっては、人生の中で、今よりも、その時の生き方のほうが時間が大切だったのか?子どもたちから何かを学び、その上で親として受け渡すものがあれば、それが子育てというものなのだとすると、私はこれからどうすればよいのか?
神様の話す言葉は、時として難しい話が多い。

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第758号 2013年10月4日「洗い張り No.2」

従業員教育で、着物が直線縫いになっていることを教えるには、『解(ほど)き』をさせるのが一番だ。縫い糸を解くことで、着物がどのように構成されているのか実感できる。裄(ゆき)だとか衿(えり)、前・後巾、衽(おくみ)巾、等々、解くうちに着物のことがわかり、仕立て直し、つまりリフォームの話をしても納得する。
作務衣のような生活着には、長い袖はない。では、なぜ、他の着物は袖丈を長くしたのだろう?振袖のお客様には、『袖を振ることで、幸せのキャッチボールをするんだよ。』などと、魂振りの話をする。だが、真意は?争い事を鎮めるため、無くすためだと思うのだ。袖が邪魔になって、刀を振り回しづらいのではないか?そのあたりが本当のところか?
我々は、知らないうちに、袖がついているのが当たり前だと教えられてきた。袖がないほうが便利なのに。そんなことを考えるなら、直線縫いで作ってあること自体も不便だ。着物の当たり前の決まり事は、不便な事が多い。これ以上の話になると、業界の先輩方からお叱りを受けそうだし、私自身の勉強不足を指摘されることになりそうなので、もうよそう。
着物は、着慣れることが一番なんだ。着づらい品なんだということを頭に置いてから着装を始めれば、気軽に着物が楽しめると思う。

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第757号 2013年9月27日「洗い張り」

757私がこの仕事に入った頃は、まだ、常に着物を着用されている方がたくさんいた。『洗い張り』をして、仕立直しをし、着用される方が多かった。
常着の代表がウール素材の品だったが、すべりが良くて軽いシルクウール着物もよく売れた。絹物だと、裏地を付けるので仕立代も高額だが、昭和40年代後半になると、高度成長で世の中も安定し、着物にも贅沢するようになり、紬や小紋がよく売れた。
毎日着用していると、立ったり座ったりで、ヒザの当たる部分などはどうしても痛んでくる。洗い張りをすると、組織が元に戻り、汚れ等も取れ、新品同様になる。
仕立直しの注文を受け、着物を預かると、縫い糸を解いて一反の布にするのだが、その仕事をよく手伝った。祖母は、いちいち糸を切るのではなく、縫い目から糸を引いていた。すると、す~っと布が2枚に分かれて解けてくるのだが、私はそれがなかなか出来ず、ハサミを使ってばかりいた。結果、切った糸がたくさん布に残り、その糸くずを取るのにまた時間が掛かった。よく着用されるお客様は、10年もそのままにするようなことはされないので、解きも簡単(糸を引きやすい)だが、着用されていない方の着物は、糸も弱っていて解くのに時間が掛かった。
現在は、洗い張りをされる方も少なくなった。代替わりをして着物が必要なくなると、『引き取ってくれないか?』と問い合わせてくる方もある。そんな電話が多くなった。この業界で商いをする身として、悲しい気持ちになる。

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第756号 2013年9月24日「単衣の魅力 No.11」

もうすぐ10月だというのに、浴衣の反物を購入したいというお嬢さんが来店された。
10月15日に着用したいというので、それに間に合わせなくてはいけない。昔なら2日で縫ってくれる仕立屋さんもあったが、現在は、至急を嫌がる加工屋が多いので、最低1週間から10日いただいている。着物屋としても情けなく思う。
そんな話をしていたら、『自分で縫う』と言われた。『えっ?縫ったことあるの?』 『ええ、一度だけ・・・』 そんなで仕立て上がるのかな?と思いながら話を続けていると、『ミシンで縫うから・・・』とのこと。それならやれるかもと思い、『もし、やれないようなら、当店にご相談くださいね。』ということで、購入していかれた。 こんなお客様もあるんだ。
その後、電話で、『一度、水に通したほうがいいと聞きましたが・・・』との質問があったので、『綿素材は縮むので、そうするといいのですが、購入されたのはコーマ生地だから、ほとんど湯通しはしませんよ。』と答えた。よく勉強されている。これなら心配なさそうだ。うまく仕立て上がるといいですね。
朝夕は、少しずつ秋らしくなってきました。今秋こそ、1枚だけ持っている単衣の紺の結城紬を着るぞー。
着物っていいね!

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第755号 2013年9月20日「着付教室」

着付教室について。
まずは、日常に着たいのか?結婚式や成人式などのお祝いの席で着たいのか?それとも、喪服等の悲しみの日の着装を学びたいのか?というところから始まります。
式服の着装は、昔も今も、2人でお互いを手伝いながら着装します。現代は、ヘアやメイクもしなくてはいけません。ですから、正直屋では、当店にお出掛けくだされば、ヘアスタイルも含めた着装のお手伝いをさせていただきます。
その折に、痩せている方には、タオル等を使用して補整をします。着慣れていない方でも、一日中きれいに着装し続けることができるように、多少窮屈ですが紐やベルトを使って着付けます。便利な補整具もありますので、着付教室では、それを利用する場合もあります。
日常着ることを、『常なり』とか『卦(け)』とか言いますが、この場合は、補整は基本的にはしたくありません。気軽に着たいからです。直線縫いの衣装をきれいに着装するには、着慣れる以外にありません。普段なんだから、帯も簡単な半巾帯でOK。着続けていると、きれいに着られるようになります。
着物美人は、歩き方も様(さま)になっています。着くずれても、自分で直せます。他人から見れば、初めはメチャクチャでも、着続けていると、自然にきれいに着られるようになります。
まずは、浴衣から始めてみてはいかがでしょう。

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