第947号 2020年1月22日「50年が過ぎて」

着物販売に携わって50年になる。丁稚奉公に行き、帰ってきたのが25歳だった。『お前は、3年も奉公に行っていたのだから、何でも知っているはずだ』と、すぐに仕入係をやらされた。奉公先で仕入係をやっていたわけでもなく、正直屋に帰ってきても、自分の客はひとりもいない。そんな一年生に仕入を任せなくてはならない程の店だったということか?ただ、幸いなことに、番頭がいてくれたので、順次商品を覚えていくことができた。
仕入をするにあたって、(私のいた)関西で売れる商品と我が店で売れる商品の違いに驚かされた。自分が仕入れてきた商品は、どれも売れない。仕方なく番頭の選んだ品を仕入れた。1年間は同じ店で働いたが、2年目からは、新たに作った支店に彼らは移っていった。仕入は同伴してくれても、他のことは自分でしなくてはならない。番頭夫婦も、新規の店で必死に働いた。
だから、当時の問屋の係りの方々には、ずい分迷惑をかけた。安く仕入れなくては、安く販売できない。無茶苦茶な値段をつけたり、売れる色・柄もわからない仕入方なのだから・・・振り返ってみれば、反省することばかりだ。
『お前は息子だから』と、広告の担当、求人の担当、新人教育の担当、与えられる仕事は、すべてやったことのないことばかりだった。失敗続きでも、少しずつ理解して、こなしていった。番頭のお客様を譲り受け、売り上げは多少できても満足するような商いではなかったが、自分のお客様が少しずつ増えることにやりがいを感じた。その番頭たちも、13年前に定年退職した。
着物業界も、20年位前から激変の時を迎えていた。店も2店舗になった。社長になって21年、厳しい日々は相変わらずだ。17年前に緑内障になって車の運転ができなくなり、仕入の柄選びの楽しみも失った。現在は、自分の子どもくらいの年齢の女性から『叱られたり』『教えられたり』しながら自分の出来る仕事だけをやっている。
『従業員は我が子と思え!』という話を伺った。これまで退社していった従業員の中には、一生懸命仕事をしてくれた人はたくさんいたと思うが、そんな気持ちになったことはなかった。申し訳なく思う。

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