きもの選びは友達探し、あなたの笑顔に癒される by かずまさ

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第802号 2014年4月4日「きものお手入れキャンペーン No.2」

『きものお手入れキャンペーン』が、この4月から始まりました。今年で3年目となるこの企画、これまでと違うのは、8%の消費税が加算されるということです。普通でも厳しい中、中小企業にとっては、いっそう厳しい環境になるでしょう。
手間賃も上がります。特に、シミ抜きは、手入れに出すよりも、新しいものを購入したほうが安い場合もあります。でも、そんな品に限って、記念の品だったり、思い出のある品だったりするのです。
私は、普段から折に触れ、『シミは病気と同じです。』と言っていますが、糖尿病や高血圧のように、自分の不摂生から症状がひどくなるシミもあるということです。
湿気の多いところで保管したり、汗をかいたのに陰干しもせず仕舞ったり、汚れたことを知っていながら、そのまま放置したりして、後日、あわてて持参される方があります。早く処置しておけば、きれいに直ったのになぁ・・・と、そんな時は、自分の持病のことと重ね合わせたりします。自分の仕事に置き換えると、とてもよく理解できるのですが、『後悔先に立たず』ですね。
着物を長く愛用するためにも、この機会に一度箪笥の中を覗いてみたらいかがでしょう?ご両親が愛情込めて作ってくれた着物たちを見れば、懐かしい思い出が蘇ってくるかもしれませんよ。そして、ぜひ手を通してやってください。着物が生き生きとしてきますから・・・。

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第801号 2014年4月1日「昔の話-私のこと 番外編No.3」

801私は、昭和45年から、正直屋を手伝うようになった。
手伝い始めて間もない頃、Mという京都の問屋さんの誘いで、京都で開かれたセミナーに初めて参加した。経済研究所の話を聞いた。データ管理のすごさにビックリした。自店だけでは思いつかないような手法や他店の企画を聞くと、我店の力不足を感じた。といっても、当時の自分は、まだ商いもしていない若造で、きもの業界のことは何も知らなかった。
その頃は、名古屋でも活発に呉服組合の会合が行われていた。親父が、その代表を任されていたので、全国のきもの業界のいろいろな情報を入手できた。それがあって、前述のセミナー参加もあったわけだ。
当時のきもの業界は、景気が良かった。県や市にも協力していただき、いろいろなイベントを行った。その後、名古屋でも、各問屋さんが各々のきもの屋を集めたセミナーや、オリジナル商品の開発も行うようになった。よい時代が続いた。
東海呉服振興会では、組合員が100軒近くに増えた。その時流に、組合員もうまく乗った。お客様も、着物をよく着用されていた。着物を着て観劇に行ったり、招待旅行に参加していただいたりして、我々も楽しんだ。
平成10年頃から、きもの業界は、毎年のように縮小し始めた。しかし、そんな中でも、成長している着物屋さんもある。どうやったらいいのか?続けることは難しい。
現代は、インターネットの時代だ。お客様に喜んでいただけそうな情報を集めて発信し、店をアピールしようか、というようなことも考えている。いかに早く行動するかがカギになるのだろう。

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第800号 2014年3月28日「卒業式 No.4」

卒業式の支度というのは、早い人では、一年も前から準備される。ところが、のんびりした人や忙しすぎる人は極端だ。卒業式前日に、何を着るのか決められる人もあった。
今年は、こんな出来事があった。朝、出勤すると、店の前に一台の車が止まっていた。驚いたことに、それは、今日が卒業式だというお客様だった。そういえば、前日の夜、電話で開店時間の確認してきた方があった。(ちなみに、店は午前9時20分には開いています。)
そのお客様は、以前に一度、来店されていた。その時は、他の店も見に行かれるということで、商品は選んだものの、契約せずに帰って行かれた。その後、電話も何もなかった。
通常、このような場合、数日間はお取り置きしておくが、何の連絡もなければ、商品を片づけてしまう。こうなると、あとからもう一度出そうと思っても、どの商品だったのかわからなくなってしまうことも多い。しかし、今回はラッキーなことに、お取り置きの状態のままにしてあった。
当日だから、もちろんヘアはできない。着付は、運よく着付のできる従業員が出勤していたので、やってあげることができた。前夜の電話の折に言ってくだされば、全部のお支度ができたのにと、私も気づいてあげられなかったことを悔やんだ。聞けば、アルバイトに忙しかったそうだ。
卒業式の時間には、間に合いそうだった。一生に一度の卒業式、楽しい思い出を残すことができたかな?

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第799号 2014年3月25日「着物昔話 No.3」

本場大島紬を、在庫に持つようになったのは、昭和50年頃。番頭たちが、苦労を重ねて、大島を持てるまでに店を成長させた。私が、奉公から戻った頃のことだ。
いざ、それを持ってお客様廻りをすると、着物好きの方から、『あんたんとこには、こんな着物ないでしょう。』と黄八丈を見せられたり、小千谷や塩沢の紬を見せられたりした。悔しかった。だが、次第に、そんな品も在庫に置けるようになった。
意外にも、一番最後に持つようになった商品は、振袖だった。。昭和55年頃だったと記憶している。
振袖を売るには、若い販売員が必要だった。私が戻ってからは、求人に力を入れ、新卒者を何人か雇い、本格的に成人対象者を相手にできるよう、店を変化させていった。もちろん、売上の大半は、友の会に加入している固定客や、招待旅行のついた企画販売での売上だった。
若い従業員たちは、名簿を持って新規客廻りをした。従業員教育もした。よく売った者には、報奨金も出した。
番頭たちの日々の売上があったから、新規開拓が出来た。また、呉服組合の展示会が利用できたから、新規の重要さも知った。当時、Iという問屋さんが、若い後継者を集めた勉強会を開いてくれていて、それにも参加した。
昭和の終わりに、インターネットの重要性を学び、これからの時代の方向性を教わった。今頃になって、その頃の先輩たちの先見性のすごさを感じる。

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第798号 2014年3月18日「着物昔話 No.2」

40年以上前の話。当時は、普段から着物を着用されている人が多く、ウール、シルック着尺、ゆかた等の手軽に購入できる品もよく売れた。
当然、仕立屋さんとの取引も多くなる。その仕立物の集配の仕事を、私がアルバイトでやっていた。19歳から3年間、ほとんど毎日手伝った。
仕立屋さんのほかにも、いろいろな業者を廻った。紋屋へ行けば、目の前で紋を書いているところや、シミ抜きをしているところが見える。こんな風にして仕上げるんだ、と見る事で学んだ。これは、後で知ったことだが、洗い張り専門業者は、使う洗剤にもよると思うのだが、力の入れ具合や洗い方で、上手下手がわかる。しかし、当時は、『こんな仕事』と思っていた。我店も、洗い張りや湯のしだけは、その業者に出していた。その理由が、ずいぶん経ってからわかった。
きもの屋に生まれ、反物の巻き方や正札のつけ方は覚えさせられたが、仕上がった着物の畳み方までは覚えなかった。その時に覚えておけば、後日恥をかくこともなかった。だが、当時は、アルバイト代とその仕事をすれば、仕事時間以外の車の使用を許可してくれるという甘い約束だけで仕事をしていて、他のことを覚えようとする気持ちなどは、まったくなかった。

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第797号 2014年3月14日「着物昔話」

797『着物を裁つ』と言っても、わからない人のほうが多いだろう。
昔は、現在のように着物=(イコール)式服ではなかった。
ウールや銘仙(めいせん)、小紋、紬という絵羽仕立てになっていない総柄、つまり2尺ごとに同じ柄が連続している反物を仕立てては、普段着として着用していた。約76cmごとに同じ柄が現れるのだが、その柄が横並びにならないよう、特に前身頃には一番注意を払う。衽(おくみ)と前巾柄を、適当な間隔に配置する仕事なのだ。
一反の総尺の中には、キズが隠れていたり、身長の高い方、総尺自体が短くなってしまった洗い張りの品などもあり、難しいものだと担当者は一日中考え込んでいたものだ。
当時の仕立物係は祖母だった。その難しい柄合わせも祖母がしていたので、仕立屋さんは、言われるままに仕立てればいいのだから、柄の出具合で苦情を受けることもない。これは楽だというこで、好んで仕立物を受けてくれた。
大相撲で、贔屓(ひいき)衆に配られる浴衣には、力士の名前の染が入っており、柄合わせを間違えて、その名前が逆さまになったりすれば縁起が悪い。そんなことのないよう苦労して柄合わせをして裁っていた。
現在は、すべて仕立屋さん任せになってしまった。

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第796号 2014年3月11日「ママ振 No.3」

その年の成人式が終わると同時に、翌年の振袖の下見客や成約者が急増する。4月から消費税の値上がりが決まっているので、最後の駆け込み需要もあるかもしれません。
この1~2年、お母様の振袖を着用する『ママ振』の方も多くなりました。お母様世代の振袖は、生地も良く、今着用しても何ら見劣りする品ではありません。強いて言うなら、当時は中振袖なので、身長にもよりますが、現在の振袖と比べると、袖丈が2~5寸程度(8~20cmくらい)短い。柄付も、現在は全体に配置されるようになったことと、流行色が多少違っているものもある、ということくらいでしょう。
お母様の振袖に、憧れや愛着を抱いたお嬢様なら、『ママ振』をぜひ利用していただきたいです。身長差が大きければ、きもの屋さんにサイズ直しの相談をすればいいです。お嬢様のセンスで着用すると楽しいですよ。
小物等を現代風にアレンジすれば、同じ振袖でも、ずいぶん違った印象になります。送られてくるDMや雑誌を参考にして、重ね衿・半衿・帯締め・帯揚げ・草履・バッグ・ストールなど、自分なりにコーディネートしてみてください。それと、ヘアー・メイクや髪飾りを工夫することも重要です。
正直屋のホームページには、そんな情報が満載です。参考にして、チャレンジしてみて!

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第795号 2014年3月7日「卒業式 No.3」

3月は卒業式の月。2月28日から始まり、毎日のように、正直屋各店では、二尺袖着物と袴の着付をしている。午前5時から予約の入っている日もあり、そんな日は、スタッフは、30分前の午前4時半には出勤して、待機している。
今まで、補整用のタオルを忘れたり、草履や肌着類、小物を忘れたりするお客様があったが、店でも販売している物なので、それが理由でお支度の終了時間が遅くなるようなことはない。一度、半衿が付いていないということもあったが、ヘア・メイクをしている間にスタッフが付け、間に合わせたこともあった。
しかし、今回は、そんな簡単な話ではなかった。美容師との打ち合わせの際、勘違いから、お客様の来店時間を一時間、間違えてしまったのだ。それがわかった時は、少し慌てたようだが、いつものように、当店のスタッフは、予約時間の30分前から待機していた。美容師が到着するまでの間、先に着付をすることにしたのだ。そうしたことにより、お客様は、何とかギリギリ集合時間に間に合ったようだ。係の機転と、着付の出来るスタッフがいたことが幸いした。
予期せぬことが、起こってはいけない。パーフェクトな仕事をして、お客様に喜んでいただけるよう、正直屋は、店内でヘア・メイク・着付・写真撮りを行っている。これからも、出来る限りこの姿勢で続けていきたい。

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第794号 2014年3月4日「サービス」

店で留守番をしていたら、『証明写真を撮ってほしい。』というお客様が来店された。外国人留学生なのか、日本語も片言。私のほうは、しばらく『・・・?』  『そうか!』と合点がいくまでに、少し時間がかかった。きっと、インターネットで調べて来店されたのだ。
『写真撮影』で検索すると、現在、振袖を取り扱っているきもの屋のほとんどが引っかかるだろう。それほど、『振袖の記念撮影』を宣伝しているわけだ。日本人なら当たり前に理解することが、外国人にはわからなかったのだろう。スーツ姿の男性だった。
婚礼の着付では、当然、ヘア・メイクも行うということから、近頃は、振袖の着付時にも、ヘア・メイクを受けるようになった。サービスの延長として考えていくと、いろいろな商いが広がる。毛皮やストール、草履バッグ等は、それぞれ専門店があり、商売として成り立っていたが、現在は、きもの屋が当たり前のように販売するようになった。
先日、鼻緒のすげ替えを頼まれた。草履の販売はしているものの、すげ替えまでは出来ない。それをメーカーに持参したところ、『古すぎて、草履の台も傷んでいる。鼻緒をすげている最中に、土台が壊れてしまうかもしれない。』と言われた。受けられない注文として扱った方がいいという回答だった。昔なら、このくらいのことは、草履屋の職人さんが、店先で会話をしながら替えてくれるような仕事だったろう。
サービスの延長線とはいえ、難しい仕事がたくさんある。お客様のためにも、目を養って、お客様の二度手間にならないようにしなくてはいけないと反省する。

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第793号 2014年2月28日「番頭 No.2」

793番頭が、ある時、『社長(私の親父)が、我々を信用して、仕入れをすべて任せてくれたから、我々も必死に働いたのだ。』と話してくれた。
以前にも書いたが、私はお祖母ちゃん子で、祖母が親父のことを悪く言うのをいろいろ聞かされていて、それを信じていた。職業軍人だったので、お客様に頭を下げることが出来なかったこと、養子となって跡を継いだものの、しばらくは、祖父が苦労したこと、等々。高校、大学と成長するにつれ、親父と接することもなくなっていった。
親父は、自分の店づくりのために、親戚兄弟から人を紹介してもらい、入社させ、育てていた。自分が出来ないことを彼らに教育して、やらせた。
ある時、祖父が育てた従業員たちが横領したことがわかり、すべて解雇した。それからは、若い番頭たちの時代が始まった。
当時は、従業員教育などをしている時間はなく、個々が独自に学んだ。お客様から教わったり、問屋さんから学んだ。
親父は、商いが出来ない代わりに、組合活動や同業者との付き合いから情報を集めた。M問屋のH氏とは、商いを抜きにしての親交も深く、公私にわたりお世話になった。私も、指導を受けた。昭和40年代、50年代のことだ。
私が、親父の本当の姿を知ったり、気づかされたのは、その後、ずいぶん経ってからのことだ。

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